真言宗豊山派明王山 宝仙寺
御府内八十八ヶ所第十二番札所、関東三十六不動霊場第十五番札所

宝仙寺について

文化財のご紹介

引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)

三重塔の裏に安置されている石仏。当寺36世祐厳師が自らの墓標と弟子祐雅・卍瑞の墓標を兼ねて、明和9年(1772)の夏に予修(生前にあらかじめ造立)したものです。

高野山の延命寺にある引導地蔵尊を模刻したものといわれています。光背裏の銘文に引導地蔵尊の縁起が記されており、これによると弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定の前々日の承和2年(835)3月19日に刻まれた尊像であるとされています。

日輪弘法大師標柱

御影堂前に安置されている日輪弘法大師の標柱。元は大師堂付近にありましたが、平成四年(1992)御影堂建立に際して現在地に移動しました。

石柱の正面には「日輪弘法大師」と刻まれていますが、日輪の「輪」の字は車偏でなく、あえて車を横向きの冠としており非常に興味深いものです。石柱左面の銘文から文化11年(1814)4月に常眞言堂(大師堂の別称)三世祐峯和南師によって造立されたことが知られます。

本堂内三重塔

本堂外陣畳の間の左側に安置されている三重塔。当寺52世住職道師・飯塚元三氏・飯塚浩吉氏の発願により、関頑亭(保壽)氏によって製作されました。高さ2.8m。昭和42年(1967)に完成しました。

大きさこそ小さいですが模型ではなく、瓦一枚一枚を個別に焼いて組み合わせるなど、木組み・構造に大変な手間をかけて完成されたものです。

大壇宝塔

本堂大壇中央に安置されている宝塔で、舎利塔ともいいます。舎利とは仏陀(お釈迦様)の身骨で仏陀生涯における徳の集結とされています。真言密教においてはこの大壇の塔を大日如来の徳及びその姿の象徴としています。

この宝塔製作の発案は、仏教美術研究の第一人者故藤田青花氏で、平安時代の宝塔を原型として製作されることとなりました。製作にあたっては箔押し・鎖製作等すべてが、彫刻家で当寺壇徒の関頑亭氏によって行われました。

吊瑠璃灯籠 一対

昭和62年7月に宝仙寺第52世住職道(どうこう)師の夫人富田キヌ氏によって奉納された吊灯籠で、本堂内々陣に荘厳されています。日輪弘法大師像・仁王像吽形等を制作された関頑亭氏(木工は谷春雄氏)による作です。

この吊灯籠は、長暦二年(1038)に藤原頼通によって春日大社に奉納されたと伝えられる、木製黒漆塗六角瑠璃灯籠を模したもので、火袋部分(灯籠側面の部分)が碧色(深い青)の瑠璃玉(ガラス玉)を連ねた簾状になっています。

元々の瑠璃玉の色を再現し、火袋部分の明るさを一定に保つために玉の粒を揃えることは大変困難で、瑠璃玉を何回も焼き直すという大変なご苦労の上、漸く完成した灯籠です。

大聖不動明王像

天井画「天人」

本堂内壁画

宝仙寺本堂内に安置されている不動王明王像で、澤田政廣氏によって昭和30年(1955)に制作されました。高さ2.12m。同年10月の第11回日本美術展覧会(日展)に出品されています。

澤田政廣(寅吉・晴廣)氏は、明治27年(1894)熱海に生まれ、19歳で山本瑞雲氏に入門し彫刻の道を進みました。以来、93歳で亡くなられるまで、彫刻・絵画・工芸などの分野で数多くの作品を残しました。日本芸術院会員、熱海市名誉市民にも選ばれ、昭和54年(1979)には文化勲章を受章されています。

また、宝仙寺の檀家として御尽力戴き、昭和32年(1957)には宝仙寺本堂内陣の壁画を、昭和50年(1975)には本堂天井画「天人」を完成されています。

江戸名勝図会 中野宝仙寺

この浮世絵は2代歌川廣重(1826〜69)によって文久2年(1862)頃に制作されました。2代廣重は初代と同様に風景画を得意とし、諸国の風景画を数多く残しました。この絵は2代廣重の代表作の一つ「江戸名勝図会」の内の一枚です。

絵を見ると、寛永13年(1636)に建立された三重塔とそれを参拝する人々の様子が描かれています。この三重塔は現在の中野区立第十中学校の付近にあり、そのため塔ノ山という地名がついておりましたが、現在は中央一丁目となっております。昭和20年の戦火により焼失してしまったため、この絵は江戸時代の三重塔の様子を伝える貴重な資料となっています。現在は平成4年に宝仙寺境内にほぼ同じ大きさの三重塔を再建(さいこん)しました。

山門(仁王門)

仁王は金剛力士ともいい、仏法を守護する者で寺の入口にある山門に配することによって寺を守護する役目を有しています。

阿形と吽形の二体一対となっていますが、阿・吽とはサンスクリット語のアルファベットの最初「ア」と最後「ウン」の文字を表しており、一切の初めから終わりを意味しています。

宝仙寺の山門は、戦前までは現在よりも青梅街道に程近い所にありましたが、戦後再建するにあたり、現在の場所へ移されました。現在の仁王像は、阿形は故椹澤伸行氏、吽形は関頑亭氏によって制作されたものです。

本堂の五大明王像

本堂内陣の壇上には秘仏の本尊(天平期良弁作の不動明王像と伝えられる)に代り、鎌倉時代の作と伝えられる不動明王の立像を中心に、左右の足で大自在天と烏摩妃を踏みつけている降三世明王、蛇を装身具のように巻き付けている軍荼利明王、五鈷杵と金剛鈴を持った金剛夜叉明王、水牛に跨がる大威徳明王の五大明王像が安置されています。

また、堂内の壁画や天蓋は日本画家の故澤田政廣氏によって描かれました。

三重塔と大日如来像

宝仙寺の三重塔は江戸初期の寛永13年(1636)に建立され、廣重の浮世絵「江戸名勝図会」にも描かれたほど有名でした。

しかし、昭和20年の戦火により一切を焼失してしまい、現在の三重塔は平成4年の秋に再建されたものです。奈良・法起寺の塔に範をとった飛鳥様式の木造建築で、大きさは焼失した塔とほぼ同じで約20mあります。

塔内には大日如来と宝幢、無量寿、開敷華王、天鼓雷音の五智如来の彩色された木像が安置されています。

御影堂と弘法大師像

御影堂も三重塔と同じ平成4年に建立されたもので、屋根を宝形造りに外壁を蔀戸にしています。

堂内には背丈が2.4mの弘法大師像が安置されており、この像は脱活乾漆技法で平成4年に完成しました。脱活乾漆技法は奈良・天平期にさかんに行われた技法で、興福寺阿修羅像や唐招提寺鑑真和上像などと同じ技法です。

高価な漆を大量に使用するこの技法での大きな造像は、天平期以来のことだといわれております。

象と源助さんの話

当寺には戦前まで象の頭骨や牙などが保存されていました。これは享保13年(1728)に渡来した象のもので、当時は生きた象を見た者はなく非常に珍しがられました。京都で従四位下の位をいただいて中御門天皇の拝謁も受け、後に江戸の将軍吉宗のもとで飼育されていました。

しかし飼育が非常に大変であったため中野村の農民源助にあずけられました。源助さんは象小屋を建て、大事に飼育して人々に見物させたりしましたが、やがて死んで頭骨と牙が当寺に納められ供養されたと伝えられています。この骨と牙も昭和20年の戦禍で一部を残し焼失してしまいました。